
HISTORY
2009年年末、10周年を迎えたoverride。そして2010年5月、フラッグシップショップの
「明治通り店」がリニューアルオープン。
「帽子をメジャーに」という現社長
栗原亮の想いのもと1999年キャットストリートに一号店をオープンさせた。ショップ設立への経緯と、ブランドの成り立ちを、1922年に創業した株式会社栗原の歴史と、栗原亮の半生、帽子を取り巻く時代背景から探っていくシリーズ「HISTORY」。


栗原という会社の成り立ちは1922年に私の祖父が大阪の船場で始めた栗原商店という帽子の問屋です。祖父の時代は、紳士帽を中心に、供給すれば売れる様な状態で、着物にカンカン帽を被ったり、スーツに中折れ帽を被ったり、帽子がすごく一般的でした。けれどその後、時代が変わり高度経済成長期になると、みんな帽子を被らなくなっていきました。そこからが苦労のはじまりで、今まで飛ぶように売れていた紳士帽が全く売れない。じゃあ誰が被るんだって試行錯誤で、若者は被らないから、ターゲットは子どもで、野球帽とかキャラクター物の帽子とかになっていくんです。さらに街の帽子屋さんがどんどん減っていき、商品を卸す先が無くなってどうしたものかとなりました。そしたら今度はスーパーという業態が出てきてそこに商品を置くようになったんです。ここでも、子ども向けの帽子がメインでした。それが後を継いだ父の時代です。そんな問屋業を営みながら、栗原としてファッション帽をまたやりたいという想いを持ち続けていたようです。

1976年、青山のベルコモンズがオープンしました。ここに父が作ったのが栗原のフラッグシップショップ“ミルサ”。店長と二人三脚でヨーロッパやアメリカに商品の買い付けに行き、本業の卸だけではないアンテナショップとして“ミルサ”を続けていました。顧客には帽子好きで有名だった楠田絵里子さんや芳村真理さん、山口百恵さんなどがいらっしゃった時代で、青山は大人のファッションの街として益々発展しました。しかし帽子は一部の人の嗜好品の域を脱せずにいました。帽子をもっと身近にとの想いで、約20年続けた青山の“ミルサ”を一旦閉店。2年後、店名も改め1999年に“override”をオープンしました。“override”は、1999年から2000年へ、世紀を乗り越えるという意味とどんな困難も乗り越えるという意味をこめました。「もっと身近に帽子を」という思いが再出発の原動力でした。

父が「何がかっこいいか分からない」って言うので、これがメジャーリーグのチームのキャップで、ジーパンとポロシャツに合わせるのが流行っているって話をしました。そしたらすぐに、父はメジャーリーグとの契約をしにいったんです。当時出回っていたベースボールキャップは確か台湾製で、同じように栗原も台湾で工場を探して、アメリカと同じものを作ってキャップビジネスを始めました。日本の帽子業界では日本製の方が綺麗でかっこいいと言われていた時代。でもベースボールキャップは台湾製の方がかっこ良かった。アメリカのメーカーに育てられた台湾製は、より風合いが本物っぽかったんです。Tシャツがちょっとヨレッとしたものの方がカッコイイのと同じ感覚かな。それまでの綺麗なものが良いってところから、古着の文化が広がり始めた頃です。古着屋の文化って当時原宿や大阪のアメ村にありましたよね。
そしたら、メジャーリーグのキャップがドカーンとあたって、カジュアルキャップの走りになったんです。1987とか88年くらいかな。この事は若者が帽子を気軽に被りはじめる契機でした。うちがいろんなブランドの帽子をやっているのも、それがきっかけで、今でもメジャーリーグのライセンスを持ってやっている帽子屋は、うちが一番古いんじゃないですかね。
当時アメフト部だった僕に、父は傷物のキャップを大量に送ってくれて、先輩や後輩にもたくさん配ったら、みんなから感謝されたのを覚えていますね。
そんなこんなで、僕も帽子がファッションだって思う様になりました。若い人が帽子を被りはじめるのって1980年代後半位からで、そこからだんだんベースボールキャップが広がって、今ではあたりまえにみんな帽子を被るようになりました。
そうやってだんだん帽子が世の中に認められていく、過渡期みたいな時期に別のアパレルの会社を経て僕も栗原に入社。社会的には帽子屋って職業の認識もまだ低くて、最初の頃は、そういった世間のイメージとの戦いでもありました。